気まぐれ日記 2010年3月

2010年2月はここ

3月1日(月)「最後の徹夜か・・・の風さん」
 我ながらスーパーマンみたいだと思いながら(実は、そう思いたくて)頑張ってきたが、もう限界は超えている。今日はとうとうアシュレイをカバンに入れて出社した。申し訳ないが、会社でやらねば絶対に間に合わないという判断だ。学位論文の内容は会社でやってきたことがベースなので、成果は当然会社へフィードバックすることになる。これも仕事だと思ってください、と手を合わせる想いだ。
 会社入門時にPC持ち込みの手続きをした。
 ラジオ体操から始まった会社の1日は、その後、会議になり、なかなか自席でアシュレイを使えない。
 さらに途中で会議もあったりで、思った作業の半分しかできなかったが、ゼロよりははるかに進んだ(笑)。
 帰宅してからも、休みなく作業を続けた。
 夜、新鷹会の仲間から電話があった。
「鳴海さんも卒業したら時間ができるでしょうから、ネットで作品を発表しませんか」
 というものだった。
「ええ。時間ができたら是非」
 と応えたが、現在の私の大ピンチは想像もできないだろう。
 午前零時を回る頃には、(今日が最後なら徹夜してもいっか〜)という気分になった。


3月2日(火)「学位論文の最後のヤマ場か・・・の風さん」
 結局完全徹夜となった。
 出社前に製本業者へできたところまでのレベルのデータを送った。専用のアップローダーとメール添付の両方を利用した。
 眼の疲労に効く薬を飲んでから、フラフラで出社。
 頚椎症が痛くなったので、薬を飲み、昼休みに自席で仮眠した。
 製本業者に明日もう一度データを出させて欲しいと1日遅れをお願いして了承された。今月中旬までに、大学へ3冊出すことだけは必須だが、それ以外は多少遅れても何とかなる。
 会社の同僚が手伝いましょうと言ってくれた。地獄に仏とはこのことか。帰宅してからデータを送り、グラフを作成して送り返してもらうことにした。
 夕方になってまた首が痛くなった。珍しいことだが、半日で2回目のロキソニンを服用。
 定時で帰宅。すぐに同僚宅へメール添付で資料を送った。
 五大さんから宅配が届いていて、ワイフに開封してもらったら、夫妻のサイン入りのお酒が出てきた。
 大和田伸也の豪快なサインにワイフが感動。頂戴できたきっかけは亭主が作ったのだが、ワイフのうるんだ目の中に、亭主の存在感は芥子粒ほどもなかった。
 夕食後、ちょっと休んでから、と横になったのが運の突き。ずぶずぶと底なし沼のような冥界へ沈んでしまった。

3月3日(水)「とうとう学位論文を製本へ・・・の風さん」
 午前1時半に起こされた。
 飛び起きて書斎へ行き、パソコンを立ち上げると、同僚へ送ったメールは送信エラーになっていた。
 せっかく協力してもらえたのに……。
 データ送付を催促するメールと、ケータイの受信もあった。
 お詫びの言葉を書きつつ、データを再送信した。いちおう保険ではある(せこい)。
 同僚からは未明にメールがあり、電話でも話し、作業はやってもらうことにした。助かった〜(^_^)。
 私はとうとう半徹夜状態で朝を迎え、最後は開き直って、何が何でもできるまでやるのだと固く固く決意した。
 結局、午前11時頃にすべての作業を終えた。決して十分な出来とは言えないが、力のない者としてはこれがベストだろう。多くの恩人への感謝の気持ちは伝わりそうな内容になっている。
 飲まず食わずで昼になってしまったので、食べそこねた朝食と同じミルクとトーストで家を出た。
 午後はほとんど現場で実験をした。立っているのがつらくて、椅子に座ったら気が遠くなった(笑)。
 デスクワークは無理な一日だったので、これでよかったのだ。
 帰宅し、普通に夕食を摂り、ワイフに頼んでおいたビデオを観た。NHKの夕どきネットワークで、五大路子さんが登場した。
 横浜での芸能活動のこだわりが紹介された後、沖縄での行動が放送された。横浜でライフワークにしている『横浜ローザ』を沖縄で公演するための準備だった。想いをもって行動している人は強いし気高い。私も陰ながら公演が実現することを祈りたい。
 続いてリビングで読みかけの本を読破して、書斎へ入った。色々な用事があっても学位論文が優先で混乱していた。学位論文が一段落したからと言って、すぐに着手できないのがつらいところだ。しかし、少しずつ雑務の山を崩していけば、いつか身辺整理ができるだろう。
 昨日入れなかった風呂に浸かって、ベッドに横になったら、1秒後には寝ていた。

3月4日(木)「どうやら学位確定したらしい(笑)・・・の風さん」
 今日は会社でまともに仕事をした(笑)。実に久しぶりのことだ。えっへん(いばれることではないか……(^_^;))。
 帰宅したら、宅配が不在だと思って帰った直後だった。日曜日に注文したアクセサリーが届いたらしい。急いで電話すると、どんどん遠ざかっているところだそうで、悲鳴を上げていたが、すぐに戻ってきてくれるという。
 アクセサリは、ネコのペンダントで、死んだシルバーにそっくりだった。ワイフの賛同は得られなかったが、自分の卒業記念として入手することにした(変?)。
 もう一つ、ちゃんと届いていたものがあった。愛工大からの『卒業式・学位記授与式』の案内だった。キャンパスの掲示板には、博士後期課程の案内が出ていなかったので、誰も合格しなかったのかとちょっと心配になっていた。多くの卒業生、修了生が出る学部生、修士と違い、博士は数が少ないだけに、簡単には掲示できないのだろう。
 ……ということは、これが合格通知?

3月5日(金)「今夜も就寝が午前3時・・・の風さん」
 今日も会社でまともに仕事をした(笑)。二日連続の快挙である。えっへん(やはりいばれることではない……(^_^;))。
 昨日の愛工大からの通知で卒業が確定したことが分かったので、かねて考えていた学長との面会を計画することにした。
 今日は、事務長に電話して相談した後、研究科長の先生に電話して了解を得た。何とか卒業式までに実現させたい。
 最近、満期退社していく期間従業員が多い。今日も、若い女性が3年の期間を終えて退社していった。明るくて、職場に元気をつけてくれたので、パチパチ会の後、感謝の気持ちをこめて「お笑い系のケータイストラップ」をプレゼントした。
 製本業者から明日校正用の見本が届く予定だが、修正があった場合の指示の仕方を事前に電話で確認した。
 「データを再提出していただいた方が間違いないです」
 もうほとんど微修正しかできないと思っていたので、これは福音だった。
 校正用見本は、主に紙質と印刷の仕上がりを見てもらうのが目的だそうだ。
 再び同僚の協力を得て、可能な限り見栄えを良くすることにした。
 この夜、私は学位論文の数字のフォントの統一に専念し、最後に、同僚が作り直してくれたグラフ12枚を貼り付けた。
 それで、就寝は午前3時になってしまった。

3月6日(土)「学位論文がいち段落・・・の風さん」
 6時間ほど寝て、再び活動開始(どうも最近日にちの切れ目があいまいだ)。
 学位論文に手をつける前に、新鷹会の伊東先生に用事で電話した。あまり成果が得られたとは言えないが、これも重要なステップ、プロセスだ。
 午前中は、学位論文の全体をチェックしながら、あちこち修正を加えた。
 正午前に製本業者から校正用見本が届き、開封してみると、すばらしい上質紙で印刷の仕上がりも文句なしだった。
 それで、昼食後に、内容の見直しに力が入った。
 頑張って8枚のグラフを再製作して貼り直した。いくらか見栄えがよくなった。
 結局、午後4時までかかって、PDF化した後、製本業者のサーバーへアップロードし、メールでも添付して送信。全部終わってから電話で送付を伝えた。同時に、最終版を、会社の同僚や大野先生へも送った。
 11月の中間発表会から草稿提出、学位論文提出、公聴会前の再提出、大野先生との最終ゼミまで、超高密度にこなしてきたが、これでもう学位論文については、一段落である。それにしてもいったい何回徹夜、半徹夜したことだろう。
 これで1日が終わりでないところが、風さんの超人的な側面だ。地元の図書館へ電話して、いつも世話をしてくれる司書の方がいたので、ミッシェルで直行。新刊『時代小説を書く』を寄贈してきた。
 夜は夜で、大学の研究助成金に対する成果報告書をまとめ、さらに締め切りが迫っている確定申告書まで作成した。
 たまっていたメールを一気に出したのは言うまでもない。

3月7日(日)「今日も多忙な1日・・・の風さん」
 久しぶりにまともな睡眠をとった。
 窓の外を見ると、雨である。もうじき咲きそうな木蓮がいじらしい。
 午前中は愛工大の学長への手紙を書くことで終わった。
 午後から外出し、昨夜用意した確定申告と一緒に投函してきた。
 夕食のスパゲティのとき缶ビールを半分飲んだ。これだけで酔ってしまうほど、肉体はまいっている。
 夜は、連載原稿で使用する画像の借用許可申請1件と借用見積もり依頼1件を作成してメール送信した。見積もりが法外だったら使用できない。その場合どうするか、疲弊した頭脳では答えが出ない。
 確定申告を出し終わったので、書類の整理と、今年度のデータ記入シート作成をした。
 就寝前にちょっとだけ読書しているが、幸福感に浸れる。

3月8日(月)「数学の視点・・・の風さん」
 天気予報通り晴れた。雨天が続いていたので、晴れるとうれしい。
 ようやく時間ができたので、上野健爾先生の近著『数学の視点』(東京図書)を読み始めた。以前の『数学フィールドワーク』は真剣に読んだので、印刷ミスをたくさん発見した。面白かったから最後まで読めたのである。今回のはどうだろう。
 小学校から大学初年までの数学が、実は同じことを視点を変えて繰り返して説明しているのだ、という内容である。つまり、数学というものは視点が変わると新たなものが見えてくる、という本質を示すのが狙いらしい。
 この狙いには非常に興味を覚えたので、読み始めた。
 ところが、いかんせん、もう長い間、数学と真剣に格闘していないことと、頭の老化が激しいために、数ページ進んだところから気を失いかけた(笑)。
 それなら、せめて第1章だけでも、と今は腰を据えて読み進んでいる。
 第1章は、鶴亀算(小学校)から始まって連立方程式(中学校)……このへんまでは何とか理解できた。連立方程式が行列と行列式になってきたところから、頭がこんがらがってきた。逆行列が出てきたらもういけねえ。悪戦苦闘が始まった。
 とにかく第1章は読破しよう。

3月9日(火)「雨の一日・・・の風さん」
 一夜明けたらまた雨だった。しかも真剣に降っている。雨降りに真剣も不真面目もないのだろうが、とにかくしっかり降っている。
 当面は学位論文の疲労を癒しつつ、続々とやってくる仕事の締め切りを守らなければならない。
 そのためには、あれこれ迷っておらず、素直にこなしていくことだ。
 今日の収穫は、来週の学会出張のスケジュールを作成したことだ。
 けっこう複雑な……というか、欲張ったスケジュールを考えているので、分刻みでこしらえておかないと、とてもこなせない。
 しかし、よく考えてみると久しぶりの東京出張だ。

3月10日(水)「ファンレター(?)・・・の風さん」
 今朝は定時前に交通安全立哨があるので、1時間早起きして出社した。
 ポツポツ降っていた雨も、製作所に着く頃には止んでいた。
 寒かったが、電池式カイロをポケットにしのばせて、なんとか無事に任務を終えた。それにしても実にさまざまなクルマが走っている。30年以上以前は、流行というのがあって、どれもこれも似たり寄ったりのクルマがたくさん走っていたものだ。
 席で仕事をしていたら、封書が届いた。本社経由で外部から送られた手紙だった。表現が難しいが、ファンレターと言えば分かりやすいだろう。ただし、私を和算研究者と勘違いしていた。読者からの手紙は、出版社から回送されてくることはたまにあり、そういう中にも私を和算の専門家と思っている人がいる。よく読んでみると、数学に対する想いというか愛情というか、なみなみならぬ熱意を感じる。江戸時代も、そういった人たちのお陰で数学は伝承・発達してきたに違いない。
 帰宅し、第1章だけ読み終わった、上野先生の『数学の視点』(東京書籍)の感想を、出版社へメール送信した。小学校の算数から大学の数学まで、視点を変えると同じ数学だ、というコンセプトが面白い。
 ファンレターを送ってくれた方へ、返事を書いて、拙著も同封した郵便物を準備した。

3月11日(木)「ちょっと不機嫌な1日・・・の風さん」
 来週から学会出張などが続くのに、名刺を切らしていることに、昨日突然気が付いた。かき集めても3枚ぐらいしかない。まさか学会で鳴海風の名刺を渡すわけにも行かず、ちょっと困った。英語バージョンにするか(笑)。とりあえず追加発注はしたが1週間はかかる。 
 実は卒業式の前に学長にお礼の挨拶に行きたくて、今日、秘書とスケジュール調整を試みたが、うまく合わなかった。卒業式を過ぎたらもう二度とチャンスはないかもしれない。
 帰宅したら、数日前に某施設へ画像の借用依頼を出してあった、その返事がファックスで届いていた。見積もり結果だった。ウェブから画像をダウンロードして借用するだけなのに、法外な金額だった。私の原稿料の3倍である。ほとんどの施設が無料なのに……。予算に合わないからと借用中止を連絡した。別の施設へ出向いて写真を撮ってくることにした。

3月12日(金)「けっこう忙しい1日・・・の風さん」
 二日続けて出勤途中でポストへ投函した。今日は、岩手県和算研究会の会長さんへのお礼状である。
 ワイフのクルマが来月5年目の車検である。不景気のために昨年来我が家の(つまり私の)収入がガックリと減っているため、新車買い替えは諦めていたが、エコカー減税制度がまだ続いているので、無理してでも(つまり現金一括でなくローンでなら)買えないかと思った。数日来、密かにその検討をしていたのだが、やっぱり無理そうだったので、今日、再度断念した。いくら補助制度があっても、やはりエコカーは高価だ。
 学位論文の追い込みの疲労があって、早めに帰宅した。
 予定通り、製本された学位論文が5冊届いていた。開封すると、実にきれいな仕上がりで、満足した。原稿データがもう少し完璧に出来ていたら、と悔やまれるが、全力を投入したのは事実なので、自分の力不足を認めるしかない。
 安心して、夕食前に仮眠をとった。
 今日は次女の入試の1次試験だった。受験はこれが3校目で、本命であり最後の挑戦となる。2枚の布を渡されて、それを用いてデッサンしろという、比較的まともな課題だった。何とか先ず1次は通って欲しい。
 ネットでモバイル通信カードの安売りがされていたので、使い方をよく考えてから発注した。あ〜、お金はいくらあっても足りないなあ。

3月13日(土)「関孝和数学研究所主催講座・・・の風さん」
 曇りがちの憂鬱な空模様だった。
 昨日届いた5冊の学位論文を持って出かけた。
 本山キャンパスの事務室で、大学への提出用と大野先生へ届ける分を託した。学内便で八草キャンパスへ送ってくれるのである。
 研究費で発注していた品物が、今頃になって届いた。それらの中に、昨年発注した書籍が2冊あった。どちらも高額のため大学の附属図書館で登録手続きをした後、私のところへ回ってきたのだ。今さら手遅れだ、と思いたかったが、1冊はなかなか良い本で、後で自分で購入しようと思う。
 重い論文を渡したにもかかわらず、また重い荷物を受け取ってしまったため、ちっとも楽にならなかった。
 ミスドで軽くランチにしてから、地下鉄で名古屋市市政資料館へ向かった。この伝統的な建築物は、実は、行くのは初めてである。
 着くと庭の桜が五分咲きだった。今年初めて開花した桜を見た。
 今日は関孝和数学研究所主催の数学史入門講座があった。学位論文を披露した後、上野先生の講演だけ拝聴して失礼した。明日もあるのだが、余裕のない私は、帰宅して今月のスケジュールをこなさなければならなかった。
 上野先生は和算に関する研究テーマがどっさりあることを紹介されていた。聴講者の中から「我こそは」という人が出てきて欲しい。もちろん私は以前から「我こそは」と手を上げている(が、まだテーマは決めていない)。
 今日は電車の中で読みかけの文庫を読み終えた。今年やっと6冊目である。

3月14日(日)「ふと気付けば花粉はどこへ・・・の風さん」
 朝からよく晴れている。仕事が遅れていなければ、名古屋へ行くのだが。今日も、関孝和数学研究所主催の講座が開催されている。そして、何と言っても、今日は3.14、円周率の日である。
 午前中かけて明日の学会発表のスライドの準備を終えた。やや枚数が多いので、流れるように話す必要がある。
 ふと気付いたが、今年は花粉症であまり苦しんでいない。そもそも飛散量が少ないのだろう。それでも敏感な私は、普通はもう何度も強力な薬の世話になっているはずだ。それが、まだ一度もない。花粉の存在が意識から消えるほど超多忙だったのかもしれない。
 午後から、出張(旅行)の準備と並行して、懸案の講演やら執筆の準備を進めた。
 明日は早朝から発表なので、前泊で臨む。
 出発は夕食後だ。 
 東京に着いた。実に9ヶ月ぶりである。既に午後10時近く、明日も早いので、さっさと定宿にチェックインして練るしかない。
 例によって、ホテル近くのコンビニで、寝酒と明日の朝食を買う。
 寝酒はウィスキーの水割りにした。
 久しぶりとは言え、定宿なので、慣れた動作で作業に着手。ワイヤレスLANでネット接続(無料)もできたし、ズボンプレッサーまでセットできた。

3月15日(月)「最後の学会発表か・・・の風さん」
 目覚ましで6時半起床。
 早稲田大学は、2年前にSSHで講演をさせてもらった戸山高校のすぐ近くだったので、土地勘もあった。会場には一番乗りだった。
 日本機械学会生産システム部門講演会で、今日はトップバッターで発表するのである。
 ゆっくり準備ができ、落ち着いていると、顔見知りの先生方が続々とやって来られた。会社の同僚まで二人来てくれたのは意外だったが、うれしかった。もしかするとこの分野での学会発表は最後になる。会社生活の集大成の一つに、会社の後輩が同席してくれているのは、大いに意義がある。何と言っても、人生はリレーである。バトンをつないでいくことが最も重要である。あらゆる意味で。
 短い時間では難しい膨大な分量の内容を、てきぱきと説明した。
 ありがたいことに質問も2件あった。
 終わった。ホッとした。あとは、今日の発表を論文にして提出しなければならない。
 昼まで聴講し昼休み時間を利用して大学から外出した。
 新宿まで出て、さっとランチを食べたあと、小田急百貨店に入って、バレンタインのお返しを購入。続いて、小田急線で代々木八幡へ向かった。新鷹会の伊東先生から、宮司としての紹介状を頂戴するためである。
 勉強会はあいかわらず賑わっていたが、私は参加せず、すぐ大学へ戻った。
 高田馬場駅から早稲田大学のキャンパスまではけっこうな距離がある。
 ワイフいわく無茶なスケジュールだが、実行してしまうから恐ろしい。いや、実行しなければ、何事も成すことはできないのだ。
 後半も聴講し、懇親会にも出席した。
 前部門長で知人のKさんと一緒に会場を後にした。Kさんは4月から大学へ転職されるという。私の描いているコースをまさに実践させている。うらやましい。高田馬場駅近くのスタバでコーヒーを飲みながら歓談して別れた。Kさんとは30年以上の付き合いになるが、お互いに数奇な人生を歩んでいる方だろう。
 今夜もホテル近くのコンビニで寝酒と明日の朝食を買った。今夜の寝酒はスペインのシェリーのソーダ割りである。
 昨夜より早く、午前零時前に寝た。

3月16日(火)「久しぶりのパーティー・・・の風さん」
 目覚ましで6時前に起床。チェックアウトし、東京駅でコインロッカーに荷物を預け、埼玉大学へ向かった。
 今日は精密工学会春季大会の初日である。昨年は発表したが、今年はやらない。昨日の発表で打ち止めである。
 京浜東北線で40分。北浦和駅で降りた。そこからバスに乗り換えて埼玉大学へ向かった。
 さすがに一番乗りではなかったが、最初の発表に楽勝で間に合った。早起きが苦手な風さんにとって、これは奇跡だ。
 午前中の発表を真剣に聴講した。なかなか面白かったからである。選ばれた人たちかもしれないが、はつらつと発表する若者たちを見て頼もしく思った。
 昨日に続いて、途中で作家に変身(笑)。
 埼玉大学の岡部恒治先生と落ち合って、先生の運転するプリウスでランチに出かけた。プリウスは昨今話題のハイブリッドカーである。プリウスの前はセルシオで、その前はクラウンだったそうだから、トヨタ自動車は表彰する必要がある。完全なトヨタファンだった。
 岡部先生は日本数学協会の副会長である。
 学位取得報告とともに、今後の人生設計について語り、先生のご支援をお願いした。
 しゃべりまくっていて、持ってきたお土産を渡すのを忘れた。ボケだ。
 午後はシンポジウムに出席したが、疲労が一気に襲ってきてうたた寝してしまった(笑)。
 帰りも駆け足だった。バスと電車を乗り継いで東京駅まで戻ってきた。
 しかし、すぐにコインロッカーから荷物を出すことはしない。
 まだスケジュールがあるのだ。
 東京會舘へ向かった。かつて歴史文学賞を受賞した場所である。それよりも直木賞、芥川賞授賞式が行われる場所だ。
 たまたま日本ミステリー文学大賞や新人賞の授賞式が開催される日で、若桜木虔さんが誘ってくれたのである。
 懐かしい人に会えるのではないかという期待もあって、帰宅は遅くなるが顔を出すことにした。
 今年のミステリ大賞は北方謙三さんで、広い会場はあふれ返っていた。
 推理作家協会の顔ぶれとかなり重なっていると思っていた。辻真先先生がみえたらご挨拶したかったが、みえなかった。東野圭吾氏がいたら、ちょっとお話したいことがあったのだが、みえなかった。楠木誠一郎さんや鈴木輝一郎さんの姿もなかった(見つけきれなかったのかもしれないが)。
 胸の大きく開いたドレスを着た女性が何人かいて、推理作家協会のパーティーを思い出した(うそです。目が行ってしまった、はい)。ま、それはともかく、……あ、珍しい、西村京太郎さんがいた! 記念写真を撮っている人がいたので、チャンスだと思い、「新鷹会の鳴海です。お久しぶりです」と挨拶して(西村さんは忘れておられるかもしれないが)、ツーショットの写真を撮った。ケータイのシャッターを押してもらったのは普通のコンパニオンの女性です。
 と、そのとき、「鳴海さんじゃないですか!」と、大学の先輩から声をかけられた。大手出版社T社の社長である。私が象牙の塔で楽しんでいる間に、社長さんになっておられた。偉大な先輩だと言えよう。先輩のためにも良い作品を書いて本を出してもらいたいと思うが、実力がなあ……。とにかく、先輩に会えて良かった。今日の最大の収穫となった。
 帰りの新幹線の時間が迫っていたので、グラスに残ったワインを飲み干して会場を後にした。
 おっと、北方謙三先生、受賞おめでとうございます。
 やっと東京駅のコインロッカーからバッグを出して、改札口を入った。
 お土産を配ることができなかったので、荷物は出発時よりも格段と重くなっていた。
 今回の出張中に、文庫を1冊読み終えた。
 
3月17日(水)「読まれる作品とは・・・の風さん」
 本社へ行くため早起きした。早起きが苦手の私が3日連続早起きしたのだ。これはきつい(笑)。
 世の中は春休みの雰囲気があるのか、道路はそれほど混んでいなかった。
 予定より早く着いたので、ミッシェルの中で暫時読書した。
 年明けに本社は部の大規模な引越しがあった。ビルの7階から隣のビルの5階へ移ったのだ。いちおう渡り廊下があるので、移動は比較的楽だったかもしれないが、入社以来30年間固定していた場所が動いたのは大きな意味がある。むろんセンチメンタリズムがないことはない。しかし、それ以上に、本社の中枢として集中していた関連部署が、分散してしまったのはショックである。妙なたとえだが、経営陣をサポートする秘書室が、距離的に遠くなり、しかもバラバラになったようなものだ。全社の戦略企画をになうべき本社機能部の中のコア部隊が、こういうことでは、もはやトップからの期待が薄くなったと言われても仕方ない。
 古き良い時代は過ぎ去ったのかもしれない。とは言ってもきっと反動はある。それを期待して、老兵は去るのみ、か。
 昼休みにも持参した本を読んだ。何の本かと言うと、冲方丁(うぶかたとう)の『天地明察』である。渋川春海を主人公にした評判の本なので、買って読んでみることにしたのだ。
 かなりの長編で、今日は10%ちょっとしか読み進まなかったが、勉強になった。
 勉強になったという意味は、普通の意味ではない。何しろ、私は渋川春海はもとより、和算も江戸時代もかなり詳しい。そういう意味での勉強ではなく、読まれる本とはどういう本かということである。それが今まで私には分からなかった。
 これもたとえになってしまうが、芝居で言えば、私の作品は歌舞伎であり、彼の作品はテレビドラマなのである。どちらが多くの人にとって楽しめるか、答えは簡単だ。そして、重要なことは私のが歌舞伎だからと言って、テレビドラマを非難してはいけないということだ。
 私もちかいうちにテレビドラマのような作品にも挑戦してみようと思う。

3月18日(木)「大量に届いた日・・・の風さん」
 昨日は帰宅してから背中が痛くて、仕事が思うようにできなかった。そして、とうとう痛みに耐えられず、書斎の床にぶっ倒れてしまった。
 目覚めたのが午前1時半だった。
 背中の痛みは残っていたが、やらねば、という思いだけで、ゆるゆると起き上がった。
 午前5時半に再び床にぶっ倒れる頃には、20日(土)の講演スライドがほぼできていた。
 1時間半の仮眠後起き出して、普通に準備して、ミッシェルで家を出た。
 途中で封書を投函したのも最近よくやる習慣だ。
 職場では朝のラジオ体操にも参加した。
 今日は仕事の合間に月曜日の学会出張報告を書き上げた。
 今日も早めに退社して、ガソリンスタンドで久しぶりに灯油を購入し、続いて薬局へ足を伸ばして、なくなってきた薬品を補充した。雨がポツポツ降り出したが、天気予報通りである。
 帰宅したら、荷物がたくさん届いていてビックリした。
 2月に受検して合格したCPEMEの認定証が届いていたのはうれしかった。
 来週の講演のために手配した『美しき魔方陣』が届いていた。そして、1日早く学位論文がダンボール2箱届いていた。明日から配布を開始できるのはありがたい。
 最後に、楠木誠一郎さんの新刊『織部の密書』(河出書房新社)である。中身の濃そうな立派な本だ。私なら3年はかかりそうな作品である。楠木さんならきっと3ヶ月程度で書き上げたのに違いない。昨日の『天地明察』で学んだように、歌舞伎タイプでないテレビドラマ的な作品にも挑戦してみよう。
 
3月19日(金)「早くも遺言か・・・の風さん」
 昨日、1日早く学位論文の製本が届いたので、配布活動を開始した。
 とりあえず会社へ5部持って行き、3部をすぐに処置し、2部を予備として保管した。
 昼休みには、CD機を使って製本代を振り込んだ。預金残高が乏しかったので、給与が入っていることを確認してからの実行で、ちょっと情けなかった。いよいよひもじい時期がスタートだ。あとは稼ぐしかない。
 勢いが出てきたので、仕事もちゃんとして(当然か)、さっさと退社。
 夕食時に、長男と次女に重々しく、学位論文を渡した。人生経験が少ない彼らには、父親の苦労はよくわからないだろうが、仕方ない。ま、親が死んでからのためのものだな、きっと。
 それにしても、急に花粉症がひどくなってきた。
 花粉症のせいか喉の痛みがひどく、うがいを何度もする。

3月20日(土)「出張先で和算を力説・・・の風さん」
 本をぎっしり詰めたキャリーバッグを引きずりながら出発。
 喉が痛いので、のど飴をなめながら歩く。
 花粉症もひどくて、とうとう強力なカプセル剤を服用した。
 今日は、青山学院大学へ出張兼作家活動である。
 名古屋から東京まで、交通機関はごった返していた。世の中は3連休である。
 社会人研究の期間中に、ずいぶん多くの先生がたと知り合いになれた。私は本当に幸福者である。
 その中の一人の先生が中心で進めて来られた研究部会が、今回で通算200回になるという。20年かかって到達された偉業である。その研究部会を聴講するのと、作家として講演をさせていただくのである。
 研究部会のテーマは、製造業に携わる者にとっては、非常に関心が高く、参考になるものなので、私も事前に知人に連絡し、聴講を誘っていたが、いかんせん、土曜日のため、あまり多くの臨時参加を得ることはできなかった。しかし、200回記念ということで、通常の倍以上の参加があったので、研究部会としては盛会だった。
 朝から次々に飲んだ花粉症の薬がようやく効いてきた。
 最後に、私の講演の番が回ってきて、今回の学位取得のトピックスも交えて紹介してもらえた。
 和算の話は、非常に受けた。特に、私が技術屋であるため、大袈裟に聞こえる話もまともに聞いてくれたようだ。参加者の半数近くは大学の先生なので、江戸時代の数学者がかなり高齢になってからも立派な業績を残している話は、感銘を与えたようだ。
 持参した書籍は完売した。ただし、原価割れした価格でサービスしたので、私は全く儲けていない。
 続く懇親会、2次会でも、たくさんの質問が浴びせられ、私は楽しくうれしく江戸時代の数学文化を力説した。
 調子に乗って3次会まで行ってしまい、午前零時過ぎにホテルにチェックインすることになってしまった。
 お陰でバタンキュー状態だった。

3月21日(日)「腰が痛い!・・・の風さん」
 目が覚めたが、容易にベッドから起きられなかった。
 腰がひどく痛いのである。
 かなり時間をかけて、シャワーを浴び、髭を剃って、部屋を出た。キャリーバッグはものの見事に軽くなっているのに、体への負担を感じる。もうまっすぐ帰るだけ、と気も楽になっているのだが、腰の痛みが精神を不安にする。
 東京駅で帰りの新幹線を選ぼうとすると、不思議とすぐ乗れた。昨日の混雑が嘘みたいだ。
 しかし、各地で強風が吹いていて、ダイヤが乱れているらしい。
 指定をとったのぞみに乗車したら、ガラガラである。
 結局名古屋まで、二人がけを一人で占領できたが、朝食のパンを食べた後、すぐ寝てしまった。
 目が覚めたら、名古屋到着の3分前だった! 
 これはやはり何かおかしい。体調が変だ。
 高島屋デパートで商品券を購入し、腰をかばいながら名鉄に乗り換えた。
 帰宅して、昼食を摂り、昼寝もしたが、腰から背中にかけての激痛がいっこうに引かない。
 庭の木蓮がすっかり盛りをすぎて花びらが散り、悲しく地面を覆っている。
 とにかく雑務はやめて、のんびり過ごすことにする。
 夕方からワイフとスーパーに買い物に行き、その近くの喫茶店でケーキを食べた。甘い物で疲労を早くとりたかった。当地も風が強く、腰痛が治らない私の不安をあおっていた。
 それでも夜になって、コンビニに買い物に行く必要が生じた。学位論文が重くて、郵送では割高になるため、エクスパック500で送ることにしたのである。
 帰りに雨でもないのに、ミッシェルのフロントガラスに水しぶきが飛んできた。最近になって、こういうことが2度ほどあった。今夜で3度目である。私の頭にある不安が浮かんだ。
 今夜は学位論文4部を郵送する準備をするのが精一杯だった。
 
3月22日(月)「ミッシェルが壊れた・・・の風さん」
 早朝から会議があるので、1時間も早起きした。
 ミッシェルに乗る前に、昨夜の不安を確かめることにした。
 ボンネットを開けると、不安は的中した。
 ラジエータからのクーラント漏れである。修理の覚悟はすぐ決めたが、とにかく出社しなければ。
 やかんで水を運んできてリザーバタンクに補充して家を出た。何とか会社までもたせたい。
 途中で、昨夜用意したエクスパック500(学位論文入り)4つを投函した。
 しかし、5kmと進まないうちに温度計の針が異常な上昇を始めた。
 オーバーヒートの経験は過去3回以上ある。うち2回は即走行不能になった。
 やばいと判断し、Uターンして家に戻った。
 結局、ワイフに会社まで送ってもらった。早朝の会議には間に合わなかったが、定時前には出社できた。
 終日会議が続いた。
 今日は、次女の受験結果が分かる日だった。午前11時過ぎにはウェブ上に公開されるらしい。しかし、ワイフも私も次女からの朗報を待っていた。
 昼過ぎに、ようやくメールがあった。
 残念な結果だった。信じられなかった。
 私は次女の才能を信じているし、次女もそれなりに努力していたと思う。
 しかし、結果はダメだった。1浪しても芸術系はこれほど難しいのか!
 人生は長い。それを頼りに、次女にはこれからも絵と取り組んでいってほしい。
 一方私は、腰が痛かったが、何とか耐えた。それにしても、この痛みはどこから来るのか?
 ミッシェルのドック入りは明日と決まった。
 帰りは、会社バスと電車を利用したが、定期を忘れてきたので、電車賃の分だけ損害をこうむった。腰が痛いので、こういう他愛ない損害も大きく感じる。
 私もミッシェルもどちらもガタが来ているのだ。

3月23日(火)「30年ぶりの卒業式・・・の風さん」
 今日は卒業式である。子供たちではない。私の、である。
 会社に入って27年で社会人入学し、それから3年で、とうとうこの日がやってきた。
 あいかわらず腰が痛い。
 修理に出すミッシェルで行くわけにはいかない。
 ワイフとともに、ワイフのクルマで大学へ行く。
 空はどんよりとしていて、いつ雨が降ってくるかわからない。
 精一杯頑張った社会人入学を終える晴れの日のはずなのに、イマイチ気分が冴えない。 自分の体調とミッシェルの故障と次女の合否結果のせいだろう。
 1時間ちょっとかかって大学に着いた。
 業者のフリをして、正門で手続きをしてキャンパス内へ入り、学部の建物の前まで進入した。
 大野先生はまだみえてなかったので、クルマを置いて、ワイフと卒業式のおこなわれる体育館へ向かった。
 寒い。風こそ吹いていないが、空気が冷えていて、身に沁みる。やはり年齢(とし)か。
 体育館には既に卒業生や父兄が続々と集まっていたし、ブラスバンドのリハーサルの音も流れていて、卒業式の雰囲気が盛り上がっているのを感じた。
 2階のワイフにカメラを預けて撮影を依頼し、私は1階の会場の最前列に仲間と座った。
 10時きっかりに式典が始まった。
 博士の学位記を授与される8人は、全員がそろって前に出て、一人ずつ学長から学位記を授与された。
 講演などの大舞台に慣れている私でも、これには緊張した。
 修士や学士は代表者が登壇した。
 成績優秀者の表彰も続き、若い彼らを憧憬のまなざしで私は眺めた。
 11時半から博士取得者と学長、指導教官の座談会があった。
 ワイフは外で待たせることにしたが、私と同様に夫人同伴の人がいて、両方共、同席が許された。こういったフランクなところは好感がもてる。
 なごやかな座談会と記念撮影を終えて、公式行事は終わった。座談会で出た桜餅が美味かった。
 大野先生と研究室へ寄ってから帰宅する予定だったが、夕方から本山キャンパスで修士の授与式と懇親会があると聞いた。先生方もみえるということなので、学位論文をお渡しする絶好の機会と考えて、私も参加することにした。
 八草キャンパスを後にする直前に、学部事務室へ行き、たいへんお世話になった事務の方に、お礼の気持ちを込めて拙著を進呈したら、「鳴海風さんの本ですね」と言われた。これまで私から正体を明かすことはしていなかったのに、相手はご存知だったようだ。それで、「あまり無理なさいませんように」といつも私のことを気遣ってくれていたのだ。学位論文作成の最終段階で感じたように、人間はたった一人では何もできないのである。感謝感謝感謝。
 帰りにワイフとゆっくりランチを食べた。
 帰宅するとミッシェルが代車のコルサに化けていた。
 亡父の霊前に大きな学位記を捧げた。私が大学院へ進学した32年前にビックリしつつ喜んでくれた亡父である。もし生きていれば、腰を抜かして狂喜乱舞してくれた……はずはないが、私の学究肌は亡父譲りなのは間違いない。母への報告は後日だ。もっとも理解できるかどうか。
 ゆっくりする間もなく電車に飛び乗って名古屋へ向かったが、1時間遅れで本山キャンパスに到着した。
 行きの電車ではまたも爆睡状態だった。相当に疲労しているらしい。
 先生方へ学位論文をお渡しできてよかった。
 他の院生とも会えてよかった。
 あいかわらず腰が痛いので、1時間半ほどで会場を失礼した。
 帰りの電車でワイフからメールがあり、学部事務室の方からお祝いのフラワーアレンジメントが届いたという。どうやら、今日渡した拙著への返礼でもあるらしい。またまた気を遣わせてしまった。申し訳ない。
 次女が合格していれば、赤飯だったのだが、普通の夕食となった。
 人生は常に複雑模様である。

3月24日(水)「とりあえず整形外科へ・・・の風さん」
 朝、腰が痛くて目が覚めた。
 日曜日から随分と体を労わっているのに、この痛さは何なんだ? 腰椎とかの問題ではなく、内臓の疾患ではないかという不安が頭の中に広がった。
 (総合病院へ検査に行こう)
 そう思いながら、ウトウトしているうちに起きる時刻になった。
 いくらか痛みがやわらいでいたので、無理して出社することにした。
 今日も天気は悪く、冷たい雨が降っている。
 ミッシェルのラジエータ交換は純正品ではなく、コストを考慮し、中古かリビルト品か輸入品でおこなうことになった。輸入品が一番可能性が高いが、盗品のような気がして、ちょっとイヤだな。
 送付した学位論文に対する反応が少しずつ起きている。うれしい反応である。私はひたすら「感謝の気持ち」を伝えることにした。
 そうこうしている間にも、腰の痛みがますますひどくなってきた。
 我慢できずに、頚椎症のための痛み止め、とっておきのロキソニンを服用した。
 しばらくしたら、痛みが少し弱まってきた。
 ロキソニンが効くということは、この病気は整形外科の範疇かもしれない。
 そう思ったので、少し早めに退社して、整形外科へ行った。
 病院は激しく混んでいた。世の中、病人だらけなのだろうか。
 レントゲン検査の結果、「骨には異常なし」となった。
 しかし、真因は不明。
 とりあえず、痛み止めの注射を打ち、ロキソニンと湿布薬をもらった。来週また来ることになった。
 薬のせいでいくらか痛みがやわらいだので、夕食後、少し雑用をした。
 早く仕事をガンガンやりたい。 

3月25日(木)「早くもCDの製作に着手・・・の風さん」
 今日も雨である。しかも冷たい雨。気分も憂鬱になる。
 いくら何でも土曜日の準備をしなければならない。
 痛み止めのお陰でいくらか作業ができるようになったので、スライドの準備をした。
 しかし、結局午後11時過ぎまでかかってしまった。
 それから、今度は、学位論文の入ったCDの作成に取り掛かった。
 アメリカから出張してきている会社の仲間と明日会えるので、何とかCDを渡したかったのだ。
 これが午前2時までかかってしまった。
 原因不明の腰痛で苦しむ病人のするべきことではないが、仕方ない。やらねばならない。
 CDの表面に、かねて考えていた学位論文のハードカバー写真と、コンテンツを印刷した。
 ケースに入れたら、けっこう様になった。
 多くの後輩たちへ渡したい。CDのことではない。CDに込めた想いである。学位論文に込めた後輩へのバトンである。
 
3月26日(金)「腰の痛みと旅行の準備・・・の風さん」
 製作所から久しぶりに本社へ出張したが、ミッシェルがドック入りしているので、たまのドライブも、イマイチ気分が乗らない。それと、腰の痛みがある。
 しかし、昨夜(というか今朝未明に)必死に製作したCDを届けるという、自らに課した使命があるから、どんな困難があってもやれる。
 本社は最近、席の大幅な移動があった。入社以来同一フロアに展開していた組織が、隣のビルに移るとともに、フロアも異なってしまった。一体感が失われていくのは避けられない。古き良き時代は、知る者が減ることでノスタルジアの彼方へ遠ざかっていく。
 最初に訪問した部は、人口密度も異常に高くなっていた。さらに窓の外は隣のビルの壁が迫っている。こういう地理的障害のあるロケーションでマネジメントしていくトップの苦労が思いやられる。私なら、先ずこういう環境条件は絶対に避ける。
 こうしてあちこち回ったのは、製本された学位論文や、昨夜製作したCDを届けたいからである。
 予定よりも遅くなってしまったので、有料道路を使ってまっすぐ帰宅した。
 腰の痛みは相変わらずだが、明日の準備もしなければならない。
 それでも最小限にしようと、講演スライドは枚数を減らすことだけに専念し、あとは旅行の準備に取り組んだ。が、終わってみれば、午前1時を大きく回っていて、焦る気持ちが高速回転するほど、時計の秒針も高速で回って行った。

3月27日(土)「愛媛の算額展で講演・・・の風さん」
 苦手の早起きだが仕方ない。今朝は5時起き、睡眠時間は3時間程度だ。
 ワイフにセントレア空港まで送ってもらった。
 早朝から空港ロビーはごった返していた。本を詰めたキャリーバッグが重かったので、預けることにしたが、全日空のカウンターはすごい行列である。もともと日本航空の国内線は運行数が少ないので当然といえば当然かもしれない。しかし、なんとなく凋落傾向の航空会社から客が流れているせいではないか、と思ってしまう。
 焦っている中で、何とかバッグを預け、すぐに機内持ち込み手荷物検査へ向かった。
 そこを無事通り抜け、端っこの出発ロビーに着いたのは、7時半過ぎである。
 椅子に落ち着くと、いつもの不安が頭をよぎった。もし事故で死んだら、仕事をいただいている相手への連絡がすぐにはできない。故意ではなく、忙しくて、ワイフへ伝えきれていないのだ。死亡記事に気付いて相手から連絡があればラッキーだが、そうでない場合は、仕事の連絡がないことを不審に思うまで私の死亡は伝わらないことになる。以前は、遺言のように連絡先を印刷してあったものだが……。
 もし無事に帰宅できたら、次回からはまた心がけよう。
 予定の7時50分を10分程度遅れて、双発機DHC8−Q400は、雲ひとつない青空に舞い上がった。
 フライトはきわめて安定していて、下界の眺めは最高だった。
 松山空港に軽やかに着陸した。3年ぶりの松山は、今回も快晴である。
 係りの先生がプラカードを掲げて待ち構えていてくれた。少々恥ずかしかった。
 先生のお話では、松山も久しぶりに天気が好くなったが、今朝の冷え込みはかなりきつかったと言う。
 坂の上の雲ミュージアムへ着くまでに、JRの松山駅など、思い出の場所を通り過ぎて、前回の記憶が甦ってくる。
 今回の「愛媛の算額展」の中心人物、愛媛和算研究会の浅山会長が待っていてくださった。
 フライトの都合で早朝から会場入りしてしまったので、坂の上の雲ミュージアムはもちろんのこと、近くのフランス式建築物である萬翠荘(ばんすいそう)や愚陀仏庵(ぐだぶつあん)を案内してもらった。
 坂の上の雲ミュージアムは、ご存知、司馬遼太郎の『坂の上の雲』に関係する資料を展示する博物館である。展示品だけでなく建物もすごい。設計が安藤忠雄氏である。どちらも半永久的に残りそうな芸術である。
 そして、愚陀仏庵は、英語の教師として松山へ来ていた夏目漱石の住居で、既に病を得ていた正岡子規が50日余り同居した。二人の同居は、漱石が文学に目覚める大きなきっかけになったのではないか。
 今回の講演には、中学生や高校生が参加すると聞いていたので、できるだけ面白くなるように工夫した。久留島義太(くるしまよしひろ)というテーマを浅山会長が選択されたのは、さすがだった。実際、多くはなかったが、学生が確かに聴講してくれたので、準備した通りに講演した。途中で、何度もクイズを出して、回答者へ拙著をプレゼントした。予定した2時間が、うまい具合に30分ほど余ったので、これも予定通りに、坂の上の雲ミュージアムにちなんで幕末の話つまり小野友五郎と小栗忠順(ただまさ)の話をした。
 無理やり出したクイズはともかく、終了後もいくつか質問を受け、それなりに盛り上げることができた。
 その後、ミュージアム近くのホテルにチェックインして体を休めたが、今朝は比較的落ち着いていた腰痛が限界を超えていた。懇親会の迎えに会長が来るまで、ベッドの上に横になることにした。
 懇親会はホテル近くの割烹で、6時に始まった。和算研究会の方ばかりでも、11人が集まってくれた。
 一般の方、中学校、高校の先生から大学の先生、リタイヤされた方と多彩である。年齢層も幅広い。
 講演の時と同様に、持参したサイン入り著書を記念に配った。
 くつろいだムードの中で進んだ懇親会も8時半にお開きとなった。
 その後、松山在住の会社の先輩が、わざわざ来てくれて、二人で近くのバーへ席を移して、実に午前1時近くまで語り合った。17年ぶりの再会だったからである。約4時間半で、公私とりまぜて歓談したわけだが、一種の同窓会であり、あっという間に17年の空白が埋まってしまうのは不思議である。
 徒歩でホテルへ戻ったが、夕方チェックインした時とは比べ物にならないほどの疲労と苦痛で、肉体は自分のものであって自分のものでないくらいガタガタのボロボロ状態だった。
 しかし、顔をしかめながらベッドに横になっても、充足感で満たされているのは、死んでも治らない別の病気(何でも無理をしてしまうという性格的なもの)のせいである(笑)。

 3月28日(日)「お気に入りの松山市内観光・・・の風さん」
 睡眠不足だったが、無理して起きた。
 楽しみにしていた松山観光の日だ。今日も空が抜けるように青く晴れている。
 チェックアウトし、ホテル近くのクラシックな喫茶店で、トーストとコーヒーの朝食。
 坂の上の雲ミュージアムにちょっと顔を出して挨拶してから、予定の観光に出発。
 市電で市駅へ向かい、コインロッカーに荷物を預けた。市駅は、空港行きのバスが出るところだと研究会の先生に教えていただいたから、ここを基地にした。アドバイスは実にありがたい。感謝である。
 たまたま坊ちゃん列車が方向転換して、出発準備をしているところだった。
 日本最初の軽便鉄道。辻真先先生の小説でも紹介されている。
 遊園地の汽車みたいだが、観光ムードに浸るため乗車。
 ディーゼルエンジンのレプリカだが、汽笛を鳴らしてムードを盛り上げている。
 途中でおこなわれた車掌の解説が、時代がかっていて楽しかった。
 終点の道後温泉駅に着くころには、激しい振動でお尻が痛くなっていた(笑)。
 松山市立正岡子規記念博物館を見学した。さーっと軽く見学のつもりが、だんだん引き込まれてしまい、1時間半ほどしっかり見学してしまった。正岡子規の偉大さが、強烈に印象付けられた。
 私の腰や背中の痛みなど、正岡子規の脊椎カリエスの激痛の万分の一だろう。まして、文学界への影響にいたるや、子規に比べて途方もなく小さい。子規は明治の文学界の巨人である。
 なべ焼きうどんで昼食にし、残り時間が心配になったので、伊佐爾波神社見学や道後温泉入浴は断念して、再び市電に乗って松山城観光へ向かった。子規の博物館と松山城は今回の見学MUSTスポットである。
 行きはロープウェイに乗った。そこからお城までかなりきつい坂を上らねばならなかった。
 やっと天守閣の見えるところまで出たが、備中松山城とは大きさが激しく違った。市の中心部の小山に大規模な城郭が築かれているのだ。
 ここから有料という場所からもさらに奥が深かった。城郭らしく左右に曲がりながら奥へ進み、やっと靴を脱いで内部へ入ってからも、広い。立派なお城である。外から見て美しいだけでなく、内部が本物なので、お城全体に魂がこもっている。江戸時代の侍たちの息遣いが今も残っている。
 松山藩はきわめて徳川家と関係が深い。幕末、慶応4年、鳥羽伏見の戦いで幕軍が敗れた時点で、不幸にして松山藩は賊軍になってしまった。そのため土佐藩が攻め込んできたのである。
 とことん戦うべきか、議論百出だったろう。
 しかし、賊軍の汚名を着せられてしまった以上、天皇に対して弓を引くわけにはいかない。
 勢いのある西軍と戦えば、家臣だけでなく多くの民百姓も犠牲を強いられる。
 当時の藩の中枢は、最終的に戦いを選択しなかった。この美しくも雄々しい松山城を、二百数十年にわたって守ってきた松山城を明け渡したのである。苦渋の選択をしたその心中を察して、胸に惻々と伝わるものがあった。真のリーダーは、自分のことより部下や一般庶民のことを考えるものだ。
 天守閣からの眺めは絶景だった。澄んだ空気を通して瀬戸内海も望まれた。きちんと整備されて発展した市街地も、当時の藩の勇気ある選択の正しさを物語っている気がした。
 季節商品のさくらソフト(クリーム)を食べながら、城を後にした。帰りはリフトを利用した。
 まだ時間があったので、今度は、護国神社を目指した。市電を乗り継ぎ、市バスにも乗った。
 ゼロ戦のプロペラが飾ってあることでも分かるように、護国神社には戦争で亡くなった多くの人々の霊をなぐさめる石碑がたくさん並んでいた。戦争を知らない私だが、戦争を忘れてはならないことだけは何となく分かる。
 この護国神社の隣に、万葉歌人、額田王の歌碑がある。それを見るのがここへ来た目的である。

 「熟田津(にぎたつ)に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな」

 次に、すぐ近くにある一草庵を訪ねた。放浪の俳人と言われた種田山頭火の終焉の家である。
 偶然、中へ入ることができて、息を引き取った部屋を見ることもできた。
 だんだん時間がなくなってきたので、今度は「歩け、歩け」とばかりに歩いて、またまた市電に乗って、松山市駅を目指した。
 今日は正岡子規についてずいぶん勉強できたので、最後の仕上げに子規堂を見ておこうと思った。
 ところが、場所を探している間に、時間が経過してしまい、やっとたどり着いたときは、5時の閉館時刻を過ぎていた。残念。
 こうして松山市内観光を終えたが、肉体はまた相当なダメージを受けたようだった。
 バスで松山空港へ向かい、お土産を買った後、じゃこ天おろしそばを食べてから帰りの飛行機に搭乗した。セントレアまでの機内ではあっという間に爆睡モードになってしまい、次に目が覚めたときは、セントレア空港の滑走路に着陸した直後だった。
 飛行機のお陰で近く感じることもあるが、また訪ねたい松山だった。

3月29日(月)「調子が出ないよ・・・の風さん」
 超高密度の週末が明けて、また1週間が始まった。
 連載原稿の締め切りが迫っている。
 これから本業の小説家に徐々に軸足を移していかなければならない。
 普通に会社の仕事を終えて、定時で退社した。帰路、買い物と代車に給油した。
 帰宅すると郵便物もたくさん来ていた。学位論文を送付したことに対するうれしい返事も含まれていて、元気が出た。
 これまで体力不足を食物エネルギーの過剰摂取で補っていた面があったので、そろそろ食生活も普通に戻さなければならない。とは言え、食後の痛み止め服用は避けられない。
 書斎でパソコンに向かい、メールもどっさり来ているが、選抜した数通に対応することにして、愛媛県和算研究会の浅山会長へのお礼の葉書作成に着手した。順調に作業が進んでいったが、最後の印刷で失敗した(笑)。葉書用印刷紙に最初からやり直した。
 連載原稿の準備に入ったあたりから猛烈に眠くなってきた。
 とうとうダウン。
 学位論文に夢中で取り組んでいたときと同じ状態だ。
 石油温風ヒーターの前で猫のように丸くなっていたのだが、寒くて熟睡はできなかった。
 3時間ほどで起き出し、さっと入浴して、再び書斎へ。
 すぐ原稿に取り組めなかったので、ETCのマイレージのポイント交換などをやって気合が入ってくるのを待った……が、最後まで気合が入らず、ちゃんとベッドへもぐり込んだが、冷え切った体が温まらず、うつらうつらしているうちに夜が明けて、目覚ましがけたたましく電子音を鳴らした。
 
3月30日(火)「いじましい生活・・・の風さん」
 年度末で世の中は非常に忙しい状態が続いていると思う。学業を一段落させた風さんは、どちらかと言えば、楽になりつつある筈である。
 ETCマイレージのポイント交換の締め切りが迫っていた。これも年度末の恒例行事である。ただし、この制度そのものがなくなる可能性があるらしい。法律とからんだ世の中のしくみは、予想もしない方向に動いていくから油断がならない。
 しかし、ともかく、ギリギリの今夜、やっとポイント交換を終えた。2枚のカードの合計で、わずか1400円だったが。
 ドック入りしていたミッシェルが、意外と早く、修理完了したという連絡があった。昨夜給油して帰ったばかりだったので、ミッシェルを受け取るのは、少しガソリンを消費してからにしようっと(いじましい風さんであった)。

3月31日(水)「年度末が終了・・・の風さん」
 製作所の仕事を11時半に終えてすぐ本社へ出張した。だんだん春らしい陽気になってきている。
 本社に着いてすぐ食堂へ直行し、昼食を摂るとまたすぐ本社の某所へ向かった。そこで開発中の新製品の展示会がおこなわれているのである。
 私はほとんど昼休みのど真ん中に訪れたので、説明員など一人も見当たらなかった。
 その分、誰にも気兼ねせず、これはいいとかこれはたいしたことないとか、ぶつぶつ呟きながら効率良く見学できた。
 時間はあまりなかったが、製作所へ戻る途中、また某所に寄って、会社の新製品展示に匹敵あるいはそれ以上の成果をざーっと見学した。毎年この頃にある陶芸展である。
 知人の作品に今年も圧倒された。見事な色とその組み合わせ! どんな色が焼き上がるかとてつもなく難しいと思う。釉薬と焼成温度や雰囲気が複雑にからまっている筈だ。
 名人はそれを乗り越えて美しい作品を作り上げる。
 比較的最近活動を始めた別の知人の作品もすばらしかった。長足の進歩とはこのことを言うのだろうか。見た瞬間芸術品だと分かった。今後の進化が恐ろしい。
 3時前に製作所に帰り、仕事に戻った。
 帰宅すると、今年もわずかだが還付金が戻るという通知状が届いていた。サラリーマン収入が激しく落ちているときだけに(それに比例して私の小遣いも減少しているのだ)、うれしい。涙が出そうだ。

2010年4月はここ

気まぐれ日記のトップへ戻る